したたかで人懐っこい

京都市と京都府はまったく別の性格を持ち、神戸市と兵庫県も性格が異なるのに比べ、大阪は大阪府全体が大阪的といえます。

市と府は区別する必要がなく、大阪人の意識の中にも市と府の境界は存在しません。

だれでも大阪に対して共通のイメージがあるようです。

がめつい、しぶちん、ど根性、活動的、創意工夫がうまい、ユーモアがある……

このようなイメージがついた原因は、テレビや映画、小説などに描かれる大阪や大阪人が、いささか誇張されているせいでもあり、大阪弁のお笑いタレントがさらにそのイメージを強烈にしているともいえます。

そして、大阪の面白いところは、実際に住んでみるとさらに大阪的な性格を実感するところでしょう。

日常のディテールそのものが、イメージ以上に大阪的だからです。

たしかに大阪人は見栄や体裁よりも実を取る合理性があります。

また、初対面の相手にも気軽に話しかける人懐っこさがあります。

あらゆる点で庶民的で、それだけにしたたかでもあります。

京都、大阪、神戸の三都市は語感でとらえられるという説があります。

京都は「はひふへほ」という柔らかい語感、神戸は「パピプペポ」という弾むような語感、大阪は「ばびぶべぼ」という濁ったひらがなです。

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野田駅で乗り換えするなら下調べを

大阪には、JR大阪環状線の「野田」と阪神電気鉄道本線の「野田」という2つの「野田」駅があります。

重複を避けるために、あとから開設したほうは駅名に社名を冠したりして区別するので、後発の阪神は社名「阪神」をつけて「阪神野田」のような名前をつけるのが通常なのですが、阪神はJR「野田」と同名を称します。

この2つの「野田」は約500メートルも離れた場所にあるため不便でしたが、大阪市営地下鉄千日前線が開業し、野田に乗換駅ができました。

ここで、2つの「野田」が存在していたために、混乱するような乗換駅の名前が生まれます。

JR「野田」への乗換駅が「俣川」で、阪神「野田」への乗換駅が「野田阪神」です。

地下鉄千日前線の乗換駅なのに「野田阪神」と命名されたのは、単に「野田」とするとJRと区別がつかないためです。

開業当初には「野田阪神電車前」という駅名がつけられたのですが、のちに「電車」そして「前」がとれて、さらに阪神の「梅田」駅が「野田阪神」と呼ばれるようになり定着していたので、地下鉄千日前線も「野田阪神」と名乗ることになったのだそうです。

その後、阪神「野田」と地下鉄「野田阪神」に接続するJR東西線の「海老江」駅が誕生し、ますますややこしくなっています。

梅田はかつて埋田だった

大阪市北区のJR大阪駅や梅田駅周辺の地域に梅田という地名があります。

梅田駅のあたりは通称「キタ」と飛ばれ、百貨店やホテル、高層ビル、飲食店やショッピングスポットが集積している大繁華街となっています。

梅田の南にある難波を中心とした一帯が「ミナミ」と呼ばれ、梅田のほうは「キタ」です。

梅田の福島区はもともと海で、淀川の河口に位置する湿地帯だったのを、埋め立てて田畑にしようとする事業の開始で泥土を埋め立て拓いたことから、この地域は「埋め田」→「埋田」と呼ばれるようになりました。

埋田がのちに変化して梅田になったそうです。

現在のような技術も発達していない時代であったため、泥のような柔らかい粘土質の埋立地となってしまいました。

現在では前述のように高層ビルや高層マンションも建設されていますが、軟弱地盤であることに変わりはありません。

梅田一帯の地層の悪さによる、大阪駅付近の地盤沈下も問題となりました。

901年(延喜元)年、菅原道真が大宰府へ左遷される途中、現在の梅田にある綱敷天神社に咲いていた美しい紅梅に目を奪われ、船を降りて眺めたそうです。

そして、梅の美しい地ということから「梅田」の地名をつけたという説もあります。

道頓堀の由来は人の名前

道頓堀は大阪府大阪市中央区の繁華街名と町名で、この北を流れているのが大阪を代表する川である道頓堀川です。

道頓堀川はかつて物資の輸送に利用されていた運河で、江戸時代は歓楽街や花街でした。

道頓堀川は人工河川で2015年に開削400周年を迎えました。

その名前は開削に関係した人物の名前が由来となり、つけられたそうです。

安土桃山時代に安井道頓(苗字が成安だったという説もあります)という築城家がいました。

豊臣秀吉に仕えていた道頓は、城下町の繁栄にともなう地域周辺の開発を計画します。

道頓の弟・長左衛門、従妹の安井治兵衛、治兵衛の弟・九兵衛、親類の平野藤次、藤次の弟・次郎兵衛らの協力により、道頓は旧梅津川を掘削拡大し新川を開削するべく私財を投じて1612年に工事着手します。

その後、安井治兵衛が病死し、道頓と長左衛門は大阪夏の陣で戦死してしまいますが、安井九兵衛と平野藤次、平野次郎兵衛が工事を引き継ぎ、1615年に新川が完成しました。

当初は「南堀」という名前で呼ばれていましたが、道頓の功績を後世に伝えるために「道頓堀川」と名付けられました。

安井九兵衛は道頓堀川両岸の市街地建設をおこない、道頓堀は歓楽街としてにぎわうようになりました。

6回も名称を変更した関大前駅

阪急電鉄千里線の「関大前」は、1964(昭和39)年に「花壇町」と「大学前」を統合して設けられた駅です。

この駅は現在の名前になるまでに、日本でもっとも目まぐるしく駅名が変更されたことで知られています。

阪急の前身である北大阪電気鉄道の駅「花壇前」は、1921(大正10)年に開業しました。

花壇前の駅名は、近くの千里山花壇という遊園地にちなんでつけられました。

北大阪鉄道が開設した千里山花壇は四季折々の花を楽しめる場所として人気で、入園者が増え続けたため施設を拡大し大遊園地になり、それに伴って千里山遊園と改名されました。

このとき駅名も「千里山遊園」と改称されます。

千里山遊園は、太平洋戦争に突入すると改名を余儀なくされ「千里山厚生園」となり、駅名も「千里山厚生園」となります。

終戦後に「千里山遊園」の駅名に戻りますが、千里山遊園が閉園したので、駅名は「女子学院前」と改称されます。

千里山遊園の跡地に女子校ができる予定だったことから変更されたのですが、女子高は結局この地につくられなかったので、「花壇町」と改称されました。

そして、隣駅の「大学前」と「花壇町」の駅間が距離にして約400メートルと大変近くかったことから、2つの駅は統合され「関大前」が開業したのです。

2つの地名が合体した駅名

大阪市営地下鉄御堂筋線に「西中島南方」という駅があります。

1964(昭和39)年、梅田―新大阪間が路線延長されたときに開業されました。

地下鉄の駅名には2つの地名を合体させた名称が多く、とくに大阪市営地下鉄の駅名でよく見られますが、このように2つの地名を組み合わせた駅名は西中島南方が全国初といわれています。

2つの町の境界あたりに地下鉄の駅が位置する場合に、両町の名前を組み合わせるケースが多いようです。

当初、阪急「南方」との乗換駅としていたので「南方」の駅名にする予定でしたが、旧自治体名である西成郡西中島町の「西中島」と合体させて「西中島南方」となりました。

その結果、「西」「中」「南」と位置や方角を表す文字が3つも入るという変わった駅名になってしまったのです。

また、阪急の駅は「みなみかた」と清音で読むのに対し、当駅は「にしなかじまみなみがた」と濁音で、当駅の南側にある西中島南方駅前交差点は「にしなかじまみなみかた」の清音読みと、ややこしいです。

大阪市営地下鉄には他にも、谷町線の「四天王寺前夕陽が丘」という「四天王寺前」と「夕陽が丘」の合体した長い駅名や今里線の「新森古市」という「新」と「古」が対称をなす駅名などがあります。